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新川の歴史
新川
江戸川から古川の流れを経て、三角で新川に入り、西の中川に至る流路は、もとは船堀川とよばれていました。家康が江戸へ来て、江戸の城下町つくりが始まると、この流路は行徳の塩を江戸へ運ぶために重要となり、小名木川が開削されました。さらに寛永6年(1629)幕府は、船堀川の三角以西を掘り拡げるとともに、三角から東の江戸川までは新たに陸地を一直線に開削し、もとの川を古川、新しい川を新川とよぶようになりました。
新川は江戸幕府の発展とともに、単に行徳の塩だけでなく、舟運の重要な川となりました。すなわち、利根川の東遷、江戸川の改修によって完成した、利根川~江戸川~新川~小名木川のルートが、北関東や東北から江戸へ物資を運ぶ重要な役割を果たすようになりました。
明治4年(1871)になると深川万年橋に利根川丸会社がつくられ、新川、江戸川を通り、関宿(千葉県)から利根川に入り、栗橋 (埼玉県)に達する蒸気船「利根川丸」が就航しました。
明治10年(1877)には、内国通運会社の「通運丸」が栗橋より上流の妻沼(埼玉県)まで就航しています。通運丸は、隅田川の両国橋付近に発着所があり、小名木川から新川に入り、江戸川をのぼって関宿、そして利根川中流の妻沼まで往復していました。やがて、関宿から利根川を下って銚子、さらには霞ヶ浦へと航路を延ばしています。
大正8年(1919)には東京汽船株式会社が、小名木川の高橋(江東区)から、新川を通って行徳に達する定期船を就航させました。「通船」とよばれています。その後まもなく、葛飾汽船会社も高橋と浦安の間に定期船を走らせました。「葛飾丸」という小型船で、エンジンの音から「ポンポン蒸気」とよばれ、親しまれました。都心への通学、行商などには、これらの定期船が利用されました。
しかし、江戸川や中川に橋が架けられ、陸上交通が整備されると、次第に輸送の中心は陸上へ移り、昭和2~6年(1927~1931)頃に通運丸は姿を消し、同19年(1944)の通船廃止をもって、輸送路としての新川にも終止符が打たれました。
現在の新川は、平均幅員約30m、全長約3㎞で、東水門から導水し西側のポンプ所で排水、水質浄化をはかり水位を一定に保っています。
さらに、両岸の護岸上部は撤去され、テラスや散策路などが出来、区民に親しまれています。また、地下には一級河川では全国で初めての地下駐車場がつくられ利用されています。